2009年10月26日月曜日

般若波羅蜜多心経 心経


般若心経の展開と参考文献


このように わたしは聞いた

   マガダ語 パーリ語 サンスクリット語

   口頭伝承口語成文化文語成文化

 古マガダ語
釈迦の故郷であるインドのマガダ地方の東部方言
釈迦はこの地において古マガダ語で教えを説いた
初期結集は古マガダ語による詩句形式の口頭伝承

 古パーリ語
インド西部の方言初期仏典で主に使用される言語
マウリヤ朝のインド亜大陸全域統一と仏教の伝播
釈迦の教えがインド西部に広まった時初期仏典は
古マガダ語から古パーリ語に翻訳され成文化した
初期仏典の詩句部分には古マガダ語の影響がある

 古サンスクリット語
 (梵語) 大乗仏教・経典で用いられた公用語
古パーリ語の初期仏典こそが大乗経典の基礎です
古パーリ語の初期仏典から大乗仏教の思想と時代
に即した多くの大乗経典が梵語で編纂されました
初期の大乗経典には古パーリ語の影響が見れます


   般若波羅蜜多心経 構造

 般若」
古パーリ語の「パンニャー」の古漢語による音写

 「波羅蜜多」
古サンスクリット語のパーラミータの古漢語音写
蜜の発音がミーツからミーに変化したことによる

 「心」
古サンスクリット語フリダヤの古漢語による意訳

 「経」
古漢語 意味は縦糸・経典 パーリの原意に同じ

 『般若心経』
現在の日本人により現代日本語による発音と解釈
無分別智慧の完成に至たる心髄本質を説いた経典

 般若
古サンスクリット語のプラジュニャーの古漢語音写
は(鉢羅枳嬢)であり般若は古パーリ語の(パンニャー)


   般若波羅蜜多心経 大乗

煩雑になった釈迦の教えを根本に立ち代えようとする流れ
時と場所に合った方法で釈迦の教えを広めようとする流れ


   般若波羅蜜多心経 伝播

 漢訳般若心経
鳩摩羅什(亀茲国)  摩訶般若波羅蜜大明咒経
玄奘(唐)      般若波羅蜜多心経
法月(印度マガダ国) 普遍智蔵般若波羅蜜多心経

 梵字般若心経
最古梵字 東京国立博物館所蔵 法隆寺貝葉経
 
 邦訳般若心経
元興寺智光  般若心経述義
最澄伝教大師 摩訶般若心経釈
空海弘法大師 般若心経秘鍵
道元禅師   摩訶般若波羅蜜
白隠慧鶴禅師 般若心経毒語註
盤珪永琢禅師 心経鈔

 邦訳の重要性
弘法大師は密教曼荼羅に基い真言をも注釈しています
盤珪禅師は仮名文字をつかって平易に注釈しています


 般若心経書籍(参考・引用)
中村元・紀野一義  般若心経・金剛般若経
中村元・奈良康明  仏教の道を語る
奈良康明      般若心経講義
金岡秀友      般若心経
松原泰道      般若心経入門
公方俊良      空海たちの般若心経
岸正利       虹が流れるように
中村佳子      「生きもの」感覚で生きる
中村元       龍樹
中村元       ブッダのことば-スッタニパータ
中村元       ブッダの真理のことば・感興のことば
中村元       ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経
中村元       ゴータマ・ブッダ 上中下
( J.Krishnamurti   恐怖なしに生きる 自我の終焉)
( Joho Lennon      Imagine)

   般若波羅蜜多心経 般若

般若波羅蜜多心経の経典は色なのです
般若波羅蜜多心経を感受し想像します
般若波羅蜜多心経の写経読誦は行です
般若波羅蜜多心経もその注釈も識です

心の対象がが止滅するとき ことばの対象も滅する
我が止滅すとき 分別も止滅する

大般若経では、第二分功德品第三十二に
「般若波羅蜜多」という語句・概念自体が
大明呪であると説かれています
大明呪とは言葉では言表わせないものであり
無分別なものです

般若心経についての詩句

2009年9月23日水曜日

般若波羅蜜多 Imagine


般若心経とイマジン


このように わたしは聞いた


君には分かっているはずさ

君には分かっているはずさ
天国も地獄も ないってことは
そこに空が 広がっているだけ
君には観えるはずさ みんなが共に
今この時を 生きているのが

君には分かっているはずさ
国家や宗教で 分けなければ
殺し合うことも ないんだと
君には観えるはずさ みんなが共に
穏やかに 生きているのが

君は僕のことを 信じていないのかい
でもみんなの気持ちが 変わったなら
君たちが僕たちと 一つになったとき
世界が一つになって 生きて行けると

君には分かっているはずさ
独り占めなんて できないと
欲望や貪欲は 僕たちにはいらない
君には観えるはずさ みんなが共に
世界を分かち合って 生きているのが

君は僕のことを 信じていないのかい
でもみんなの気持ちが 変わったなら
君たちが僕たちと 一つになったとき
世界が一つになって 生きて行けると

君には分かっているはずさ John Lennon

Imagineについての詩句

2009年7月8日水曜日

般若波羅蜜多心経  不生


般若心経の不生


このように わたしは聞いた

不生不滅と諸行無常


  顛倒夢想
  人は生まれ必ず死んでゆくこれを無常といいます
  生あるものは必ずや滅するこれを無常といいます

生存を常とみるから始めとしての生終わりとしての死をみるのです
自らの生と死をみた人はいません生も死も人が作り出した言葉です
生と滅のあることが無常ではなく生も滅もないことこそが無常です

  顛倒夢想
  人は一瞬一瞬変化しているこれを無常といいます
  朝の我と夕の我は違いますこれを無常といいます

これは輪廻転生です我を常とみているからなのです
生と滅を離れることが無常であり無我なることです
分別し二辺に分けることは個我を常とみることです

  顛倒夢想
  この世はすべて儚なく哀れですこれを無常といいます
  花が移ろい散るのは無常ですだからこそ美しいのです

常に執着するから哀れであり儚いと思うのです
花散る無常を常とみるから美しいと思うのです
常と無常とが顛倒していて無常をみていません

諸行無常
もろもろの事象はただ過ぎ去るものです
時間は共通でもなく一定でもありません
生もなく滅もなく縁起しているだけです

不生不滅についての詩句

2009年3月29日日曜日

十二縁起

このように わたしは聞いた

十二縁起
順観 逆観 成道
因 縁 果 報 中道


   生 老 死
これはすべての生命の本性であり真理です
しかしこの真理が人生の不安となるのです

   受 愛 取 有
これは生存における満たされない不安です
それは自我への満足であり安定と自尊です

   識 各色 六処 触
人が自己を認識するのは身体と心からです
この身体と心は本より自我ではありません

   無明 行
この不安を生む根本の原因は何でしょうか
それは間違った認識による無明な思いです


   順観

この世についての真理を知らない無明です
二辺に依らない智慧を持ってないからです

身体と心によって自我が形成されてゆます
他者と自我という区別が形成されてゆます

無常なものに執着し不変を求めもがきます
自己の満足と安定を求め不安がつのります

すべての生存について真理を悟ることなく
ついには不安のなかにただ迷うばかりです


   逆観

この世の真理を悟れば無明はなくなります
この真理とは無常と皆苦と無我のことです

身体と心に誤った自我を形成することなく
そこに自我の安定も自尊心も生まれません

相依するものに完全をもとめることもなく
無常なものに執着する思いも生まれません

この世についての何の不安も生まれません
それは寂静という静まった安らぎなのです


   成道

釈迦は中道四諦八正道四法印を悟り
十二縁起の順観逆観により成道した

順観逆観は順逆にして因縁果報なり
ここに縁起の理法がついに完成した


   中道

縁起とは四法印にしてこれ中道なり
縁起とは四聖諦にしてこれ中道なり

縁起とは無自性にしてこれ中道なり
縁起とは八正道にしてこれ中道なり


十二縁起についての詩句

2009年3月23日月曜日

初転法輪

このように わたしは聞いた

初転法輪
中道 八正道 四聖諦 四法印 三毒


   中道

ただ快楽を求め続けても心の平安は得られません
また苦行を行じ続けても心の平安は得られません
それは快楽や苦行が偏った行ないだからなのです

平安とは偏った思いを捨てることです
偏りのない行とは中道を行くことです
この中道のことを八正道ともいいます


   八正道

八正道の正とは中道の中です二辺に偏らないことです

正見とは二辺に偏らずただ見つめることです
正思惟とは二辺に偏らず思い考えることです
正語とは二辺に偏らない言葉で語ることです
正業とは二辺に偏らない行を続けることです
正命とは二辺に偏らないで生きゆくことです
正精進とは二辺に偏らず精進をすることです
正念とは二辺に偏らない思を念ずることです
正定とは二辺に偏らない心を定めることです


   苦諦
   諸行無常 一切皆苦 諸法無我

苦諦や一切皆苦の苦とは不満 不安定 不安のことです

すべての存在現象は恒常ではなく常に変化して行きます
形あるものは壊れゆくものです不変なものはありません

すべての存在現象に満足なものはなく不安定な存在です
相依相関の関係によってはじめて存在しているからです

すべての存在現象は無常な存在であり不安定な存在です
この存在には主体としての個我というものもありません
 
これらがこの世の真理であり生きることの不安なのです


   集諦
   煩悩 貪 瞋 癡 無明

なぜ生きることが不安なのかを明らかにすることです

人は不変を願い満足と安定を欲し自尊心を持ってます

無常なものに如何に執着しても欲望は満たされません
我の思いで満足を求めても怒りと恨みが募るだけです

このように煩悩を生きることが不安を生きることです
この世の真理を承知しないことが不安を生む根本です


   滅諦
   涅槃寂静

不安とは我であり我の外に不安はありません
煩悩とは我であり我の外に煩悩はありません

この世の真理を真理として身にしみることです
無常無我を悟り形成された我を捨去ることです

そして唯一無二の生命を生き生かされるのです
そのときこころは安らぎの中に静まっています


   道諦
   縁起 中道 八正道

それは縁起を悟り中道を歩み続けることです
これが仏陀の悟りへ到る聖なる道の教えです


初転法輪についての詩句

2009年2月22日日曜日

心経 自性

このように わたしは聞いた

自性

(照見)
五蘊皆空   一切すべてはみな空である
五蘊自性皆空 一切すべての本性はみな空である

  舎利子
  色性是空 空性是色
  色不異空 空不異色
  色即是空 空即是色
  受想行識亦復如是

この部分で空について説明しています

五蘊皆空の方法では
空をもって色が空であると説くことになります

五蘊自性皆空の方法では
色の本性を説くことで空を説くことになります

これが和訳と解説における訳の違いを生じさせました
和訳では説き方が顚倒して空が何かを説けていません

色性是空の性は自性の性です
性とはそのものが本来備えている真の性質又は本性です
形有るものの本性はいずれ形を失うものということです

色不異空の不異は八不の不一不異の不異です
不異とは各々が異なった個我の存在ではないということです
色の各々が相依相関関係によってはじめて存在することです

色即是空の即は生死即涅槃の即です
即とはそのままで又はそのままの存在のことです
色はただ自ずと在るだけであり無自性な存在です


  色は本性にしてこれ空なり 空とはこの色の本性なり
  色は不異にしてこれ空なり 空とはこの色の不異なり
  色は即ちにしてこれ空なり 空とはこの色の即ちなり

物質
恒常に存在することはないこれを空と言います
空とは物質存在の本性が無常であることを言うのです
物資は相依に依ってのみ存在するこれを空と言います
空とは物質存在の本性が無我であることを言うのです
物質はただ無自性に依り存在するこれを空と言います
空とは物質存在の本性が涅槃であることを言うのです



後句の色と空は前句の色と空を向上させた色と空です
下段の色と空は上段の色と空を向上させた色と空です


自性が方法または道しるべの役割を持っていたのです
色の本性を見抜くことで空を照らし出してゆくのです

五蘊の自性を見つめ皆空を照せり

照見五蘊自性皆空についての詩句

2009年1月29日木曜日

心経 解説

このように わたしは聞いた

  般若波羅蜜多心経

  大乗仏教の真髄が説かれて行きます
  
般若波羅蜜多は言葉という分別では表せないもの
不翻とされてきました
もともと般若波羅蜜多という言葉さえも仮名なのですが
日本語では智慧または無分別智の完成と訳されています


    観自在菩薩はどのようにして
    般若波羅蜜多に到ったのですか


  觀自在菩薩 行 深般若波羅蜜多時
  照見五蘊自性皆空

  般若の完成を目指していた観自在菩薩が見極めたのが
  この世の一切すべての本性は空であると言うことです

観自在菩薩の本願は大慈大悲であると言われています
慈悲とは慈しみと思いやりの心です
無辺の慈悲心(無縁)を特に大悲と言います
大悲とは自ずと在るを観る心の働きです

般若波羅蜜多心経はその名が示すように
空そのものだけを説いているのではなく
空に相応する智慧としての般若波羅蜜多を説いています


  舎利子
  色性是空 空性是色
  色不異空 空不異色
  色卽是空 空卽是色
  受想行識亦復如是

  色は本性にしてこれ空なり 空とはこの色の本性なり
  色は不異にしてこれ空なり 空とはこの色の不異なり
  色は即ちにしてこれ空なり 空とはこの色の即ちなり

  物質は恒常に存在することはないこれを空と言います
  空とは物質存在の本性が無常であることを言うのです

  物資は相依に依ってのみ存在するこれを空と言います
  空とは物質存在の本性が無我であることを言うのです

  物質はただ無自性に依り存在するこれを空と言います
  空とは物質存在の本性が涅槃であることを言うのです

  色の本性を三方から諦めることによって
  照らし出されたのが正に空だったのです

大乗仏教では空のことを縁起ともまた中道とも言います
縁起とは空性であり仮設であり中道であるとも言います
これを即空即仮即中ともまた空諦仮諦中諦とも言います

一切すべての本性は恒常な存在では無い 空性
一切すべての本性は相依の関係性に依る 仮設
一切すべての本性は無自性な実相である 中道
空性とは無常です 仮設とは無我です 中道とは涅槃です
これを諸行無常 諸法無我 涅槃寂静の三法印と言います

つまり空とは根本真理である三法印又は四法印のことです
それは三法印という悟りを空の一文字に集約した表現です


  舎利子

  是諸法空相
  不生不滅 不垢不浄 不減不増

  諸法の空相には三つの特性があります

  諸行は無常なのですだから不生不滅です

  諸法は無我なのですだから不垢不浄です
  涅槃は寂静なのですだから不減不増です

一切すべてが空であると見極めたことによって
二辺によらない中道に立つことに到ったのです
そして二辺に分別することをも否定しています

時間とは止まることのない流れであり不生不滅にして無常です
空間とは相依と相関にのみ依っていて不垢不浄にして無我です
実相とは森羅万象が無自性な事であり不減不増にして涅槃です


  是故空中
  無色無受想行識
  無眼耳鼻舌身意
  無色聲香味觸法
  無眼界乃至無意識界
  無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡
  無苦集滅道

  空においては
  五蘊(身もこころも)も  五蘊としての
  六根(色) 六境(受) 六識(想) 十二因縁(行) 四聖諦(識)
  これらすべてのものが無であるとしています


知恵による分別も言葉による分別も尽く否定しています
分別知の完全な否定であり悟りを分別する事の否定です


  無智亦無得
  以無所得故

  悟りに到る知恵も悟りの結果も無くなったのです
  分別する知恵では何も得る事など出来ないのです
  なぜならすべてのものは自性より空なのですから

  もって無所得の故んなり 無所得無分別智の完成

これが般若の智慧に到るということです

分別が完全に切断された智慧の完成です
空に相応する無分別な智慧の完成です

空という悟りにより知恵が切断されたとき
般若という智慧の悟りが完成するのです
知恵という分別は消えて無くなったのです

  菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
  心無罣礙 無罣礙故
  無有恐怖 遠離顚倒夢想 究竟涅槃

  菩薩薩埵は般若波羅蜜多に到ったのです
  心を覆っていたものとは我だったのです
  そして煩悩という我は消え去ったのです

自ずと在るを観るとき自ずと心の我も消え去ります
これこそが究竟な涅槃を行くことだったのです

菩薩薩埵とは観自在菩薩のことです
観自在とは自ずと在るを観ることです

これが般若の智慧に到るということです
自ずと在るを観るとき自ずと生ずる心を慈悲といいます

般若の智慧に基づく慈悲の心が大悲です
観自在菩薩の慈悲行が般若波羅蜜多の行なのです


  三世諸佛 依般若波羅蜜多故
  得阿耨多羅三藐三菩提

  同様にしてすべての諸佛も
  この上なく正しく平等な目覚めを得たのです

観自在菩薩そして三世諸佛というのは
他でもない我々すべの人の事なのです

涅槃という別の世があるわけではないのです
無我の心で自ずと在るを観そして行うのです

すべては無常でありただ過ぎ行くのみです
大悲の行を続けることそれが完成なのです

それは中道を生きることです
そして涅槃を生きることです


  故知般若波羅蜜多
  是大咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
  能除一切苦 眞實不虚故

  般若波羅蜜多は不翻だから咒なのです
  眞實不虚な般若波羅蜜多こそが
  一切の苦しみを除くことができるのです

般若波羅蜜多を讃え咒として説明をしています
般若波羅蜜多とは故に知るまでも無いことです


  説般若波羅蜜多咒 卽説咒曰
  掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎詞


  ここに般若波羅蜜多の咒を
  陀羅尼集経より添付致します

般若波羅蜜多の陀羅尼を訳すとするなら
それは般若波羅蜜多であり賛美の詩です


    観自在菩薩はこのようにして
    般若の智慧を完成させたのです


  般若波羅蜜多心 經 

  般若波羅蜜多のこころを終わる


般若波羅蜜多心経についての詩句


般若波羅蜜多心経 無明


般若心経の無無明亦無無明盡


前置
「亦」「乃至」による二重構文と「無」の位置
などが複雑な文にしています二重構文の理由は
十二因縁が順観と逆観の一対で成り立っている
からですこれらに留意して和訳をしてみました

このように わたしは聞いた

是故空中
無無明亦無無明盡 乃至 無老死亦無老死盡

無無明乃至無老死 亦 無無明盡乃至無老死盡

無 無明乃至老死
無 無明盡乃至老死盡

無明から老死まで無いのです
また
無明が尽きるから老死が尽きるまで無いのです

十二因縁を順観に思考することは無なのです
また
十二因縁を逆観に思考することも無なのです

   (空においては)
   十二因縁を順観にそして逆観に行ずること
   思考することはもとより実体が無いのです

行(行蘊) は本より空です行の例として
十二因縁の順観と逆観を挙げたのです

順観と逆観 亦は 生起と減尽 亦は 流転と還滅

無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡についての詩句


正真
仏陀は因縁を順観と逆観に思考分析し
さらには座禅による深い瞑想によって
ついには無常無我涅槃を悟り成道した


順観と逆観と亦と乃至についての詩句

心経 罣礙

このように わたしは聞いた


罣礙

心をさまたげ あるいは心を覆うものとは
「我」より生ずる思考や意識や記憶である

思考や意識や記憶と「我」とは別ではなく
思考や意識や記憶こそが「我」なのである

「我」が心のさまたげであり覆いなのである
心の罣礙(けいげ) とは「我」だったのである

心無罣礙

「我」から恐怖という思いが生まれるのである
「我」の外に恐怖がある分けではないのである
恐怖とは「我」であり「我」が恐怖なのである

顚倒とは「我」であり夢想とは「我」なのである
心に「我」という妨げや覆いがなくなったとき
恐怖はなく顚倒も夢想も遠く消え去るのである

無常に依りて無我を悟り 般若に依りて無我に到る
それは終極の静やかな安らぎであり涅槃寂静である

心無罣礙についての詩句
或いは 恐怖 顚倒 夢想についての詩句

2009年1月8日木曜日

心経 不翻

のように わたしは聞いた

不翻

般若とは
無分別智とも言われるが無分別智と言った瞬間に般若ではなくなるのである
そもそも
般若自体が仮名であり 般若は言葉や文字で表すことの出来ないものである

無分別智とは
無分別智という智慧があるのではなく分別という智慧がなくなるだけである

咒とは
言葉では言い表せない言葉であり意味を持った言葉ではない言葉なのである

般若波羅蜜多とは
その概念自体が咒なのであり
言葉という分別で表す事の出来ないものであるから咒なのである

般若心経とは
般若波羅蜜多の咒 それ自体を説いているわけではないのである
掲帝掲帝波羅掲帝波羅僧掲帝菩提僧莎詞 という咒それ自体は
五蘊自性皆空であるならば またこれ無なのである

般若波羅蜜多の心とは
般若波羅蜜多
阿耨多羅三藐三菩提 
掲帝掲帝波羅掲帝波羅僧掲帝菩提僧莎詞
この三つの不翻の意味する(概念) である

般若波羅蜜多の心についての詩句


心経 和訳

このように わたしは聞いた

般若波羅蜜多心経

観自在菩薩が 慈悲行を行いつつ 般若の完成を目指していた時
一切を構成している五つの要素(色受想行識) はすべて現象であり
実体がないものである つまりもとより空であると悟られました

舎利子よ
物質に依る現象とは実体のないものである 現象に実体がないのが物質なのである
物質と実体のない現象とは 異なってあるのではなく互いに相依ってあるのである
実体のない物質とは現象なのである 現象であることそれが物質の実体なのである
色(物質現象) 受(感受作用) 想(表象作用) 行(意志作用) 識(認識作用)もすべて
同じように現象であり作用であり もとより実体のないものなのである
つまり 一切の本質とは実体のない現象の集まりなのである

舎利子よ
すべての存在は 自性がなく相依による現象としてあるだけなのだから
生まれることも滅することもなく けがれてもいず清らかでもなく
減ったり増えたりもしないのである ただ相依って過ぎ行くのみである

相依による現象であり実体はないということにおいて
五蘊 (色受想行識)  はすべてそのものがないのである
物質現象 (色)である 眼も耳も鼻も舌も身体も心意もないのである
感受作用 (受)である 色も声も香も味も感触も感覚もないのである
表象作用 (想)である 眼による象像から心による象像まですべてないのである
意志作用 (行)である 順観にそして逆観による十二因縁もすべてないのである
認識作用 (識)である 悟りに到る真理つまり四聖諦(苦集滅道) もないのである
悟りの智慧(分別智) もなく また悟りから得られるものも何もないのである

ついに悟りも消えて 得る智慧もないことに到ったのである
分別する智慧は完全に消え 智慧は般若へと到ったのである

求道者である菩薩は ついに般若(無分別智) の完成に到ったのである
心をおおっていたおおいはなくなり 我という想いがなくなったので
恐れることも顚倒夢想することもなく 永遠の目覚めを得たのである

すべての目覚めし者は 般若の完成に到ることに依り
ついにこの上なく正しく平等な目覚めを得るのである

般若の完成に到るということはこのように知られている
般若波羅蜜多は 大いなる咒であり 目覚めの咒である
般若波羅蜜多は 無上なる咒であり 無比なる咒である
すべての苦しみを完全に除き 真実にして不虚なのである

言葉では言い表せない 般若波羅蜜多 を説くならば
それは言葉では言い表せない言葉で次のように説かれる

掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎詞

般若波羅蜜多のこころ