2009年1月29日木曜日

心経 解説

このように わたしは聞いた

  般若波羅蜜多心経

  大乗仏教の真髄が説かれて行きます
  
般若波羅蜜多は言葉という分別では表せないもの
不翻とされてきました
もともと般若波羅蜜多という言葉さえも仮名なのですが
日本語では智慧または無分別智の完成と訳されています


    観自在菩薩はどのようにして
    般若波羅蜜多に到ったのですか


  觀自在菩薩 行 深般若波羅蜜多時
  照見五蘊自性皆空

  般若の完成を目指していた観自在菩薩が見極めたのが
  この世の一切すべての本性は空であると言うことです

観自在菩薩の本願は大慈大悲であると言われています
慈悲とは慈しみと思いやりの心です
無辺の慈悲心(無縁)を特に大悲と言います
大悲とは自ずと在るを観る心の働きです

般若波羅蜜多心経はその名が示すように
空そのものだけを説いているのではなく
空に相応する智慧としての般若波羅蜜多を説いています


  舎利子
  色性是空 空性是色
  色不異空 空不異色
  色卽是空 空卽是色
  受想行識亦復如是

  色は本性にしてこれ空なり 空とはこの色の本性なり
  色は不異にしてこれ空なり 空とはこの色の不異なり
  色は即ちにしてこれ空なり 空とはこの色の即ちなり

  物質は恒常に存在することはないこれを空と言います
  空とは物質存在の本性が無常であることを言うのです

  物資は相依に依ってのみ存在するこれを空と言います
  空とは物質存在の本性が無我であることを言うのです

  物質はただ無自性に依り存在するこれを空と言います
  空とは物質存在の本性が涅槃であることを言うのです

  色の本性を三方から諦めることによって
  照らし出されたのが正に空だったのです

大乗仏教では空のことを縁起ともまた中道とも言います
縁起とは空性であり仮設であり中道であるとも言います
これを即空即仮即中ともまた空諦仮諦中諦とも言います

一切すべての本性は恒常な存在では無い 空性
一切すべての本性は相依の関係性に依る 仮設
一切すべての本性は無自性な実相である 中道
空性とは無常です 仮設とは無我です 中道とは涅槃です
これを諸行無常 諸法無我 涅槃寂静の三法印と言います

つまり空とは根本真理である三法印又は四法印のことです
それは三法印という悟りを空の一文字に集約した表現です


  舎利子

  是諸法空相
  不生不滅 不垢不浄 不減不増

  諸法の空相には三つの特性があります

  諸行は無常なのですだから不生不滅です

  諸法は無我なのですだから不垢不浄です
  涅槃は寂静なのですだから不減不増です

一切すべてが空であると見極めたことによって
二辺によらない中道に立つことに到ったのです
そして二辺に分別することをも否定しています

時間とは止まることのない流れであり不生不滅にして無常です
空間とは相依と相関にのみ依っていて不垢不浄にして無我です
実相とは森羅万象が無自性な事であり不減不増にして涅槃です


  是故空中
  無色無受想行識
  無眼耳鼻舌身意
  無色聲香味觸法
  無眼界乃至無意識界
  無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡
  無苦集滅道

  空においては
  五蘊(身もこころも)も  五蘊としての
  六根(色) 六境(受) 六識(想) 十二因縁(行) 四聖諦(識)
  これらすべてのものが無であるとしています


知恵による分別も言葉による分別も尽く否定しています
分別知の完全な否定であり悟りを分別する事の否定です


  無智亦無得
  以無所得故

  悟りに到る知恵も悟りの結果も無くなったのです
  分別する知恵では何も得る事など出来ないのです
  なぜならすべてのものは自性より空なのですから

  もって無所得の故んなり 無所得無分別智の完成

これが般若の智慧に到るということです

分別が完全に切断された智慧の完成です
空に相応する無分別な智慧の完成です

空という悟りにより知恵が切断されたとき
般若という智慧の悟りが完成するのです
知恵という分別は消えて無くなったのです

  菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
  心無罣礙 無罣礙故
  無有恐怖 遠離顚倒夢想 究竟涅槃

  菩薩薩埵は般若波羅蜜多に到ったのです
  心を覆っていたものとは我だったのです
  そして煩悩という我は消え去ったのです

自ずと在るを観るとき自ずと心の我も消え去ります
これこそが究竟な涅槃を行くことだったのです

菩薩薩埵とは観自在菩薩のことです
観自在とは自ずと在るを観ることです

これが般若の智慧に到るということです
自ずと在るを観るとき自ずと生ずる心を慈悲といいます

般若の智慧に基づく慈悲の心が大悲です
観自在菩薩の慈悲行が般若波羅蜜多の行なのです


  三世諸佛 依般若波羅蜜多故
  得阿耨多羅三藐三菩提

  同様にしてすべての諸佛も
  この上なく正しく平等な目覚めを得たのです

観自在菩薩そして三世諸佛というのは
他でもない我々すべの人の事なのです

涅槃という別の世があるわけではないのです
無我の心で自ずと在るを観そして行うのです

すべては無常でありただ過ぎ行くのみです
大悲の行を続けることそれが完成なのです

それは中道を生きることです
そして涅槃を生きることです


  故知般若波羅蜜多
  是大咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
  能除一切苦 眞實不虚故

  般若波羅蜜多は不翻だから咒なのです
  眞實不虚な般若波羅蜜多こそが
  一切の苦しみを除くことができるのです

般若波羅蜜多を讃え咒として説明をしています
般若波羅蜜多とは故に知るまでも無いことです


  説般若波羅蜜多咒 卽説咒曰
  掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎詞


  ここに般若波羅蜜多の咒を
  陀羅尼集経より添付致します

般若波羅蜜多の陀羅尼を訳すとするなら
それは般若波羅蜜多であり賛美の詩です


    観自在菩薩はこのようにして
    般若の智慧を完成させたのです


  般若波羅蜜多心 經 

  般若波羅蜜多のこころを終わる


般若波羅蜜多心経についての詩句


般若波羅蜜多心経 無明


般若心経の無無明亦無無明盡


前置
「亦」「乃至」による二重構文と「無」の位置
などが複雑な文にしています二重構文の理由は
十二因縁が順観と逆観の一対で成り立っている
からですこれらに留意して和訳をしてみました

このように わたしは聞いた

是故空中
無無明亦無無明盡 乃至 無老死亦無老死盡

無無明乃至無老死 亦 無無明盡乃至無老死盡

無 無明乃至老死
無 無明盡乃至老死盡

無明から老死まで無いのです
また
無明が尽きるから老死が尽きるまで無いのです

十二因縁を順観に思考することは無なのです
また
十二因縁を逆観に思考することも無なのです

   (空においては)
   十二因縁を順観にそして逆観に行ずること
   思考することはもとより実体が無いのです

行(行蘊) は本より空です行の例として
十二因縁の順観と逆観を挙げたのです

順観と逆観 亦は 生起と減尽 亦は 流転と還滅

無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡についての詩句


正真
仏陀は因縁を順観と逆観に思考分析し
さらには座禅による深い瞑想によって
ついには無常無我涅槃を悟り成道した


順観と逆観と亦と乃至についての詩句

心経 罣礙

このように わたしは聞いた


罣礙

心をさまたげ あるいは心を覆うものとは
「我」より生ずる思考や意識や記憶である

思考や意識や記憶と「我」とは別ではなく
思考や意識や記憶こそが「我」なのである

「我」が心のさまたげであり覆いなのである
心の罣礙(けいげ) とは「我」だったのである

心無罣礙

「我」から恐怖という思いが生まれるのである
「我」の外に恐怖がある分けではないのである
恐怖とは「我」であり「我」が恐怖なのである

顚倒とは「我」であり夢想とは「我」なのである
心に「我」という妨げや覆いがなくなったとき
恐怖はなく顚倒も夢想も遠く消え去るのである

無常に依りて無我を悟り 般若に依りて無我に到る
それは終極の静やかな安らぎであり涅槃寂静である

心無罣礙についての詩句
或いは 恐怖 顚倒 夢想についての詩句

2009年1月8日木曜日

心経 不翻

のように わたしは聞いた

不翻

般若とは
無分別智とも言われるが無分別智と言った瞬間に般若ではなくなるのである
そもそも
般若自体が仮名であり 般若は言葉や文字で表すことの出来ないものである

無分別智とは
無分別智という智慧があるのではなく分別という智慧がなくなるだけである

咒とは
言葉では言い表せない言葉であり意味を持った言葉ではない言葉なのである

般若波羅蜜多とは
その概念自体が咒なのであり
言葉という分別で表す事の出来ないものであるから咒なのである

般若心経とは
般若波羅蜜多の咒 それ自体を説いているわけではないのである
掲帝掲帝波羅掲帝波羅僧掲帝菩提僧莎詞 という咒それ自体は
五蘊自性皆空であるならば またこれ無なのである

般若波羅蜜多の心とは
般若波羅蜜多
阿耨多羅三藐三菩提 
掲帝掲帝波羅掲帝波羅僧掲帝菩提僧莎詞
この三つの不翻の意味する(概念) である

般若波羅蜜多の心についての詩句


心経 和訳

このように わたしは聞いた

般若波羅蜜多心経

観自在菩薩が 慈悲行を行いつつ 般若の完成を目指していた時
一切を構成している五つの要素(色受想行識) はすべて現象であり
実体がないものである つまりもとより空であると悟られました

舎利子よ
物質に依る現象とは実体のないものである 現象に実体がないのが物質なのである
物質と実体のない現象とは 異なってあるのではなく互いに相依ってあるのである
実体のない物質とは現象なのである 現象であることそれが物質の実体なのである
色(物質現象) 受(感受作用) 想(表象作用) 行(意志作用) 識(認識作用)もすべて
同じように現象であり作用であり もとより実体のないものなのである
つまり 一切の本質とは実体のない現象の集まりなのである

舎利子よ
すべての存在は 自性がなく相依による現象としてあるだけなのだから
生まれることも滅することもなく けがれてもいず清らかでもなく
減ったり増えたりもしないのである ただ相依って過ぎ行くのみである

相依による現象であり実体はないということにおいて
五蘊 (色受想行識)  はすべてそのものがないのである
物質現象 (色)である 眼も耳も鼻も舌も身体も心意もないのである
感受作用 (受)である 色も声も香も味も感触も感覚もないのである
表象作用 (想)である 眼による象像から心による象像まですべてないのである
意志作用 (行)である 順観にそして逆観による十二因縁もすべてないのである
認識作用 (識)である 悟りに到る真理つまり四聖諦(苦集滅道) もないのである
悟りの智慧(分別智) もなく また悟りから得られるものも何もないのである

ついに悟りも消えて 得る智慧もないことに到ったのである
分別する智慧は完全に消え 智慧は般若へと到ったのである

求道者である菩薩は ついに般若(無分別智) の完成に到ったのである
心をおおっていたおおいはなくなり 我という想いがなくなったので
恐れることも顚倒夢想することもなく 永遠の目覚めを得たのである

すべての目覚めし者は 般若の完成に到ることに依り
ついにこの上なく正しく平等な目覚めを得るのである

般若の完成に到るということはこのように知られている
般若波羅蜜多は 大いなる咒であり 目覚めの咒である
般若波羅蜜多は 無上なる咒であり 無比なる咒である
すべての苦しみを完全に除き 真実にして不虚なのである

言葉では言い表せない 般若波羅蜜多 を説くならば
それは言葉では言い表せない言葉で次のように説かれる

掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎詞

般若波羅蜜多のこころ


金剛般若波羅蜜

このように わたしは聞いた

金剛般若経

無分別智なる分別知を断つ

分別知により自己と世界を分断し
言葉によって世界を分断する
分別知により識別し思考する
分別知によって真理を分別する

無分別智により思考するとは
無分別智によることではかく
無分別智によらないで思考するとは
無分別智によることである

無分別智によりままに観るとき
心におおいはなく心にまよいはない
分別が完全に切断された智慧の完成であり
無上で正しく平等な目覚の完成である

金剛般若波羅蜜についての詩句


心經 漢訳


般若波羅蜜多心經

觀自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊自性皆空

舎利子 
色性是空 空性是色
色不異空 空不異色
色卽是空 空卽是色
受想行識亦復如是

舎利子 
是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不減不増
 
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法
無眼界乃至無意識界
無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡
無苦集滅道


無智亦無得
以無所得故

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故
無有恐怖 遠離顚倒夢想 究竟涅槃
 
三世諸佛 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
 
故知般若波羅蜜多
是大咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 眞實不虚故
 
説般若波羅蜜多咒 卽説咒曰
掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎詞
 
般若波羅蜜多心 經

無分別智

このように わたしは聞いた

般若波羅蜜多

深遠な智慧の完成

分別知によって悟りを得た
悟りによって無分別智を得た
無分別智によって悟りは消えた
心のおおいはとり除かれた
心のまよいは消え去った
無上で平等の目覚が完成した

無分別智についての詩句

三諦

このように わたしは聞いた

色性是空 空性是色
色不異空 空不異色
色即是空 空即是色

物質現象とは実体がないものであり 実体がないとは物質現象なのである
物質現象と実体がないこととは異なってあるのではなく 相依ってあるのである
物質現象にはすべて実体がなく 実体がないからこそ物質現象なのである

即空 即仮 即中

すべては現象であり実体がないから空性である
すべては現象であり実体がなく仮説なのである
すべては現象であり実体がない中道なのである

縁起の理

縁起とは 真理であり実相である
すべて現象が相依っていることである
空性であり 仮説であり 中道である

三諦についての詩句

五蘊皆空

このように わたしは聞いた

一切は五つの要素で構成されている

色 物質現象
受 感受作用
想 表象作用
行 意志作用
識 認識作用

昼には白く見える雲も、夕焼けには赤く輝き、闇夜では見ることもできない
地平線の満月は天上の満月より大きく見え、月は満ち欠けにより形を変える
マッチの炎でロウソクは燃え、ロウソクの炎で線香は煙になり形を変える
人は紋白蝶の雌雄を区別できないが、蝶は雌雄を異なる色で互に認識している

人の視覚は、視力や色認識や目線の高低などによりそれぞれに異なっている
風景や紅葉や星の数などを同時に観ていても、同様には捉えられないのである
マリックのトリックはアフリカ人にとってはトリックでも何でもないのである
犬は色彩をほとんど認識できないが、動画をコマ送の静止画のように観ている

人は目で得た情報を脳の中で、それぞれの人の能力によって象として捉える
また、人は記憶を基に脳の中で、それぞれの人の能力によって象を作る
錯視では、静止画が動いて見え、無いものが見え、在るものが消えてしまう
アハ体験では、静止画が大きく変化していてもその変化を捉えられない

同じトマトを見ても、好き嫌いによって異なる感情が起こり
ラベンダーの香りでも、安らぎを覚えたり時にはトイレを思い出したりする
人は思いにより、愛情が生まる、しかし時にそれは、瞬時に憎悪へと変わる
人に起こる思いは、それぞれの人生や経験や記憶により様々である

人は五感により世界をその現象で捉えているが
とらえ方は人様々であり同様なものは何もない
人の認識は千差万別であり、人は世界を同様には認識していない
人にはそれぞれの世界があり、それを共通の世界と認識しれいる

色受想行識

一切は事象として存在しているのである
もろもろの事象は現象であり作用である
もろもろの事象には実体がないのである
もろもろの事象とは過ぎ去るものである


五蘊皆空についての詩句

時空

このように わたしは聞いた

空間の性質とは現象であり 現象という性質こそ空間なのです
空間と現象は異なってあるのではなく 相依ってあるのです
空間はすべて現象としてあり 現象だからこそ空間なのです

現象の性質とは時間であり 時間という性質こそ現象なのです
現象と時間は異なってあるのではなく 相依ってあるのです
現象はすべて時間としてあり 時間だからこそ現象なのです

空間の性質とは時間であり 時間という性質こそ空間なのです
空間と時間は異なってあるのではなく 相依ってあるのです
空間はすべて時間としてあり 時間だからこそ空間なのです

空間は現象であり絶えず変化し常恒ではないのです
空間は時間であり同時に同じ時空を占有できません
空間は時空が相依ることで成り立っているのです

同様に空間は時間であり質量でありエネルギーなのです
空間はこれらが互に相依ることで成り立っているのです
空間に実体はなく相依による現象があるだけなのです

時空についての詩句

縁起

このように わたしは聞いた

この世は縁起によって生存している
縁起が消えたときこの世も消滅する

我を生きるとは縁起を生きることである
我の縁起が消えたとき我もまた消滅する

縁起とは無自性であり相依性であり空である
無自性である相依性が故に縁起に生滅はない

縁起についての詩句