このように わたしは聞いた
般若波羅蜜多心経
大乗仏教の真髄が説かれて行きます
般若波羅蜜多は言葉という分別では表せないもの
不翻とされてきました
もともと般若波羅蜜多という言葉さえも仮名なのですが
日本語では智慧または無分別智の完成と訳されています
観自在菩薩はどのようにして
般若波羅蜜多に到ったのですか
觀自在菩薩 行 深般若波羅蜜多時
照見五蘊自性皆空
般若の完成を目指していた観自在菩薩が見極めたのが
この世の一切すべての本性は空であると言うことです
観自在菩薩の本願は大慈大悲であると言われています
慈悲とは慈しみと思いやりの心です
無辺の慈悲心(無縁)を特に大悲と言います
大悲とは自ずと在るを観る心の働きです
般若波羅蜜多心経はその名が示すように
空そのものだけを説いているのではなく
空に相応する智慧としての般若波羅蜜多を説いています
舎利子
色性是空 空性是色
色不異空 空不異色
色卽是空 空卽是色
受想行識亦復如是
色は本性にしてこれ空なり 空とはこの色の本性なり
色は不異にしてこれ空なり 空とはこの色の不異なり
色は即ちにしてこれ空なり 空とはこの色の即ちなり
物質は恒常に存在することはないこれを空と言います
空とは物質存在の本性が無常であることを言うのです
般若波羅蜜多心経
大乗仏教の真髄が説かれて行きます
般若波羅蜜多は言葉という分別では表せないもの
不翻とされてきました
もともと般若波羅蜜多という言葉さえも仮名なのですが
日本語では智慧または無分別智の完成と訳されています
観自在菩薩はどのようにして
般若波羅蜜多に到ったのですか
觀自在菩薩 行 深般若波羅蜜多時
照見五蘊自性皆空
般若の完成を目指していた観自在菩薩が見極めたのが
この世の一切すべての本性は空であると言うことです
観自在菩薩の本願は大慈大悲であると言われています
慈悲とは慈しみと思いやりの心です
無辺の慈悲心(無縁)を特に大悲と言います
大悲とは自ずと在るを観る心の働きです
般若波羅蜜多心経はその名が示すように
空そのものだけを説いているのではなく
空に相応する智慧としての般若波羅蜜多を説いています
舎利子
色性是空 空性是色
色不異空 空不異色
色卽是空 空卽是色
受想行識亦復如是
色は本性にしてこれ空なり 空とはこの色の本性なり
色は不異にしてこれ空なり 空とはこの色の不異なり
色は即ちにしてこれ空なり 空とはこの色の即ちなり
物質は恒常に存在することはないこれを空と言います
空とは物質存在の本性が無常であることを言うのです
物資は相依に依ってのみ存在するこれを空と言います
空とは物質存在の本性が無我であることを言うのです
物質はただ無自性に依り存在するこれを空と言います
空とは物質存在の本性が涅槃であることを言うのです
色の本性を三方から諦めることによって
照らし出されたのが正に空だったのです
縁起とは空性であり仮設であり中道であるとも言います
これを即空即仮即中ともまた空諦仮諦中諦とも言います
一切すべての本性は恒常な存在では無い 空性
一切すべての本性は相依の関係性に依る 仮設
一切すべての本性は無自性な実相である 中道空性とは無常です 仮設とは無我です 中道とは涅槃です
一切すべての本性は相依の関係性に依る 仮設
一切すべての本性は無自性な実相である 中道空性とは無常です 仮設とは無我です 中道とは涅槃です
これを諸行無常 諸法無我 涅槃寂静の三法印と言います
つまり空とは根本真理である三法印又は四法印のことです
それは三法印という悟りを空の一文字に集約した表現です
舎利子
是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不減不増
諸法の空相には三つの特性があります
諸行は無常なのですだから不生不滅です
諸法は無我なのですだから不垢不浄です
涅槃は寂静なのですだから不減不増です
一切すべてが空であると見極めたことによって
二辺によらない中道に立つことに到ったのです
そして二辺に分別することをも否定しています時間とは止まることのない流れであり不生不滅にして無常です
空間とは相依と相関にのみ依っていて不垢不浄にして無我です
実相とは森羅万象が無自性な事であり不減不増にして涅槃です
是故空中
無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色聲香味觸法
無眼界乃至無意識界
無無明亦無無明盡乃至無老死亦無老死盡
無苦集滅道
空においては
五蘊(身もこころも)も 五蘊としての
六根(色) 六境(受) 六識(想) 十二因縁(行) 四聖諦(識)
これらすべてのものが無であるとしています
知恵による分別も言葉による分別も尽く否定しています
分別知の完全な否定であり悟りを分別する事の否定です
無智亦無得
以無所得故
悟りに到る知恵も悟りの結果も無くなったのです
分別する知恵では何も得る事など出来ないのです
なぜならすべてのものは自性より空なのですから
六根(色) 六境(受) 六識(想) 十二因縁(行) 四聖諦(識)
これらすべてのものが無であるとしています
知恵による分別も言葉による分別も尽く否定しています
分別知の完全な否定であり悟りを分別する事の否定です
無智亦無得
以無所得故
悟りに到る知恵も悟りの結果も無くなったのです
分別する知恵では何も得る事など出来ないのです
なぜならすべてのものは自性より空なのですから
もって無所得の故んなり 無所得無分別智の完成
これが般若の智慧に到るということです
分別が完全に切断された智慧の完成です
空に相応する無分別な智慧の完成です
空という悟りにより知恵が切断されたとき
般若という智慧の悟りが完成するのです
知恵という分別は消えて無くなったのです
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故
無有恐怖 遠離顚倒夢想 究竟涅槃
菩薩薩埵は般若波羅蜜多に到ったのです
心を覆っていたものとは我だったのです
そして煩悩という我は消え去ったのです
自ずと在るを観るとき自ずと心の我も消え去ります
これこそが究竟な涅槃を行くことだったのです
菩薩薩埵とは観自在菩薩のことです
観自在とは自ずと在るを観ることです
これが般若の智慧に到るということです
自ずと在るを観るとき自ずと生ずる心を慈悲といいます
般若の智慧に基づく慈悲の心が大悲です
観自在菩薩の慈悲行が般若波羅蜜多の行なのです
三世諸佛 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
同様にしてすべての諸佛も
この上なく正しく平等な目覚めを得たのです
観自在菩薩そして三世諸佛というのは
他でもない我々すべの人の事なのです
涅槃という別の世があるわけではないのです
無我の心で自ずと在るを観そして行うのです
すべては無常でありただ過ぎ行くのみです
大悲の行を続けることそれが完成なのです
それは中道を生きることです
そして涅槃を生きることです
故知般若波羅蜜多
是大咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 眞實不虚故
般若波羅蜜多は不翻だから咒なのです
眞實不虚な般若波羅蜜多こそが
一切の苦しみを除くことができるのです
般若波羅蜜多を讃え咒として説明をしています
これが般若の智慧に到るということです
分別が完全に切断された智慧の完成です
空に相応する無分別な智慧の完成です
空という悟りにより知恵が切断されたとき
般若という智慧の悟りが完成するのです
知恵という分別は消えて無くなったのです
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故
無有恐怖 遠離顚倒夢想 究竟涅槃
菩薩薩埵は般若波羅蜜多に到ったのです
心を覆っていたものとは我だったのです
そして煩悩という我は消え去ったのです
自ずと在るを観るとき自ずと心の我も消え去ります
これこそが究竟な涅槃を行くことだったのです
菩薩薩埵とは観自在菩薩のことです
観自在とは自ずと在るを観ることです
これが般若の智慧に到るということです
自ずと在るを観るとき自ずと生ずる心を慈悲といいます
般若の智慧に基づく慈悲の心が大悲です
観自在菩薩の慈悲行が般若波羅蜜多の行なのです
三世諸佛 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
同様にしてすべての諸佛も
この上なく正しく平等な目覚めを得たのです
観自在菩薩そして三世諸佛というのは
他でもない我々すべの人の事なのです
涅槃という別の世があるわけではないのです
無我の心で自ずと在るを観そして行うのです
すべては無常でありただ過ぎ行くのみです
大悲の行を続けることそれが完成なのです
それは中道を生きることです
そして涅槃を生きることです
故知般若波羅蜜多
是大咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 眞實不虚故
般若波羅蜜多は不翻だから咒なのです
眞實不虚な般若波羅蜜多こそが
一切の苦しみを除くことができるのです
般若波羅蜜多を讃え咒として説明をしています
般若波羅蜜多とは故に知るまでも無いことです
説般若波羅蜜多咒 卽説咒曰
掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎詞
ここに般若波羅蜜多の咒を
陀羅尼集経より添付致します
般若波羅蜜多の陀羅尼を訳すとするなら
それは般若波羅蜜多であり賛美の詩です
観自在菩薩はこのようにして
般若の智慧を完成させたのです
般若波羅蜜多心 經
般若波羅蜜多のこころを終わる
般若波羅蜜多心経についての詩句
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